2009/01/08 THU (No.2105)


残りわずか







 実家に母を見舞った。その折に聞いた話。
 「終戦の前の年、八代の田舎にいた小娘の私なんかにも、この戦争は負けっとじゃなかかかという予感があった。ときどきだったばってん、不知火海の上をB29の編隊が北のほうに飛んでいくとが見えた。佐世保や長崎、博多あたりが、爆撃でやられたという噂が、どこからともなく聞こえてき始めたのもそのころたい。
 ちょうど女学校を卒業したばっかりだったばってん、勤労動員がかかって、娘たちは蒟蒻爆弾の工場勤務と、松の根掘りに行かさるるようになった。そんときに、たぶん父親が裏で手を回さっさったっじゃろ、私と、ほかに3人だけが、駅前の安田銀行に雇われることになった。4人とも、八代町内や周辺の村の金持ちの娘ばっかりたい。
 当時、女学校では算盤は教えんかったから、算盤ができんもんが銀行に勤められるはずはなかったばってん、とにかく、そういうことになった。親がたくさん預金しているからとか、町長が口を利いたからとか、そういうことだったんだろうね。
 で、銀行での仕事は、金の勘定はできん、算盤はできんということで、毎日毎日伝票運びばっかりたい。こっちの部署からあっちの部署、あっちからこっちと、一日中銀行の中を走り回っと。こん前、大学病院に行ったら、伝票が受付からあっちこっちに、天井に張り巡らされた透明な管の中を、しゅーっ、しゅーっと移動していくのを見たばってん、当時は、だれもそういう仕掛けを考え付かんかったんじゃねぇ。
 銀行には、松高村から歩いて通うしかなかった。小さい時から体が丈夫じゃなかったけん、片道2時間近くの通勤が、初めのころは辛くて辛くてしょうがなかったばってん、そのうちに慣れてきたら、反対に、その通勤が楽しみになった。
 松高村を出るまでは、ところどころにある茅葺農家は全部うちの小作さんたちだから、行き合うとよく声をかけてくれなさった。子供のころは、小作と話をしたらいかん、と親にきつく言われとったけん、顔は知っとっても話をしたことはなかったとばってん、雨の時は傘を貸してくれなさったり、リヤカーに乗せてくれなさったり、親切な人ばっかりだった。
 冬になると帰りが夜になる。そういうときは、本家の1つ年上の従兄が、自転車で迎えに来てくれた。小さい時から大の仲良しで、大人たちが、将来は夫婦たい、なんて言っていた人だった。その従兄は、終戦の年の初めに赤紙がきた。村中で日の丸の旗を持って、八代駅まで送って行った。泣きたかったばってん、出征兵士を送るときに涙を見せっとは絶対いかんと知っとったから、無理やり笑って旗を振った。
 戦後、小さな、ちょうど宝石箱ぐらいの大きさの骨箱と戦死公報が送られてきた。その骨箱を開けてみたら、お骨じゃなくて、小さな石ころが一つだけ入っとった。たぶん、南方に送られる途中で、輸送船ごと海に沈んだんだろうね。」
 そう言って、母は涙ぐむのであった。


今日のプレミア版

生乾きの靴下



展示作品:通常版「生乾きの靴下」
エッセイ:負担は増えるが
今日のポイント:光と影
撮影会講評:ナンさんの作品
「ほほ寄せ合って」

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by osampo002 | 2009-01-09 02:30
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